2022.9.10(Sat)-2022.10.10(Sun)
11:00~18:00(最終日は16:00 まで)
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宇佐美の国立のアトリエの庭には鉄棒があった。体操選手になっていたかもしれない画家は、教壇でも軽くステップを踏んでいるように見えた。
それは40年も前のことである。
画家はその身体を隅々まで十分に使いこなして西洋の美術史を駆けぬけ、さらにそこから踏みだす歩幅もみずからの身体に忠実であった。
その様相が変わるのは『ライフ』誌の写真に4つの人型を見出してからである。
画家はそこに自己の身体性のすべてを埋めこんだ。そうすることで現代美術の荒野はあらたなフィールドに更新されることになった。
「特異な感性は、もはや現代の芸術的課題ではない」のだ。そして人型が円相に内接されると、たしかに画家は消えた。
この時点を宇佐美のピークと見る者は多い。そういう考えもあるかもしれない。しかし画家自身はそうは思わなかった。
宇佐美の身体は螺旋を描くのだ。絵画は知の総体ではない。画家の知とは、むしろそこから離陸するためのものにほかならない。
だからこそ、その身体は再び召喚された。
渦巻く円相の背後にざわつく身体のゆらぎがあらわれたとき、私は画家の画家たる所以を思い知った。
描くことで荒野に至り、描き続けることでそこから脱出し、並走する論理で世界を構築した画家は、
しかしその世界が未だ画家の世界であることに気づき、みずからをもそこに映しだす場所を求めて、身体の旅に出たのである。
今回展示されるドローイングには、ドローイングであるがゆえにより明瞭に旅の途次にいる画家の姿が浮かぶ。
すでに宇佐美圭司はいないのだが、私たちも宇佐美もたしかにここにいると言ってよい。
浅倉祐一朗(美術評論家)